LOGIN地球が誕生して以来、一滴の水分子が意識を持った。 その名はミオ。 彼女は、古生代の海で恐竜との悲しみを分かち合い、中世の修道院で精神性を学び、ルネサンスでレオナルドとともに美を創造した。聖人の涙となり、兵士の血となり、少女の笑顔の一部となった。 愛を知り、創造を目撃し、戦争の無意味さを感じた。そして、人類が築いた文明が、自らの手で破壊されていく過程も見守った。 やがて地球は終焉を迎える。太陽の膨張。全ての水は蒸気となり、宇宙空間へ散っていく。 けれど、それは終わりではなく、新しい始まりだった。 永遠に循環する、一滴の奇跡。それは、あなたの体にも流れている。
View Moreローマの栄光は永遠ではなかった。 帝国は広すぎて管理できず、経済は破綻し、軍事力も衰えていった。四世紀には、帝国は東西に分裂した。西ローマ帝国は、やがて滅びることになる。 だが、その過程で、新しい信仰が台頭していた。 キリスト教。 最初は周縁の民族的な宗教だったそれが、やがて帝国の主流となっていった。そして、やがてキリスト教文明が、ヨーロッパ全体を支配することになる。 その転換点で、私はある女性に関わることになった。 聖母マリア。歴史的人物ではなく、信仰の対象となった人物。けれど、その信仰が数百万の人々の心を支配していた。 キリスト教の伝統の中で、マリアはイエスの母として描かれた。彼女の出産、彼女の苦悩、彼女の愛。全てが聖別され、儀式化された。 やがて、彼女は象徴となった。 理想的な母。無条件の愛。そして、人間的な苦悩を持つ、けれど超越的な存在。 その象徴は、古代ナミから受け継がれた、人間的な母親像をも超えていた。宗教的理想が、生物学的現実に上書きされたのだ。 それでも、その信仰の根底にあるのは、変わらぬものだった。母と子の愛。その愛が、人類の救済を約束するという信念。 中世へ向かう過程で、ローマは衰退した。政治的統一は失われ、暴力と混沌が支配した。けれど、教会は生き残った。むしろ、その混沌の中で、教会の権力は増していった。 精神的な支柱。道徳的な指標。社会的な組織。 教会がすべてを担うようになった。そして、当然のことながら、私はその教会の中にもいた。 聖水。 教会が神聖化した水。それは、私だった。赤ん坊が洗礼を受けるとき、額に垂らされる水。その水の中に、どのような力があるのか。物理的には、何もない。けれど、人々の信仰が、私という物質に、神聖性を与えていた。 それは、奇妙で、美しかった。 純粋な物質が、精神的な意味を帯びていく。人間の思いが、物質を変容させていく。 その現象そのものが、人間らしさの最高の表現だと思えた。
古代の地中海は、知識と商業の中心地だった。 フェニキア人の船乗りたち。エジプトの商人たち。ギリシャの哲学者たち。彼らは全て、私を必要としていた。 船乗りたちは、私で帆を洗い、けがを癒し、渇きを潤した。商人たちは、私で商品を運び、市場で商品を冷却した。哲学者たちは、私を飲みながら、宇宙の本質について議論していた。 特に、アテナイという都市国家は、文明の最高峰を示していた。 民主主義。理性。芸術。 すべての高い価値が、この街に集約していた。そして、当然のことながら、私はそこにいた。 古代オリンピック。その競技場で、若き男たちが肉体の極限を試していた。彼らの汗。その汗の中に、私は含まれていた。勝利の喜び。敗北の悔し涙。全ての感情が、私を通じて表現されていた。 そして、一つの特別な瞬間があった。 ソクラテスが、毒杯を飲む直前のこと。 彼はアテナイで起訴され、裁判にかけられ、死刑を宣告されていた。その理由は、「青年を腐敗させた」という罪状だった。実際には、彼の理性的な問いかけが、既得権益層にとって脅威だったのだ。 獄中で、彼の弟子たちが彼に逃亡を勧めた。彼は逃げることもできた。けれど、彼は拒否した。「法というものが成立するためには、それを尊重する人間がいなければならない。たとえ不正な判決であっても、それに従わなければ、法そのものが意味を失う」 その言葉で、彼の人生に対する哲学を、私は完全に理解した。 彼は、毒杯を受け取った。それは、トリカブト(ニガヨモギ)から作られた毒物だった。その毒物に水が混ぜられていた。その水が、私だった。 ソクラテスは毒杯を飲んだ。 その後、彼の神経系は徐々に麻痺していった。脚から始まり、徐々に上昇していく。彼の思考は、最後の瞬間まで明晰なままだった。「こうクリトン。われわれは、アスクレピウスに一羽の鶏を捧げることを約束していたと思うが。それを忘れるな」 その言葉が、彼の最後の言葉だった。 彼の脳が静止した。けれど彼の思想は、その後の二千年以上を支配し続けた。理
ナイル川。 アフリカ東部を流れ、地中海へと注ぐこの河が、一つの文明を育んでいた。古代エジプト。 私は川として流れた。毎年、定期的な洪水。そのサイクルが、肥沃な土壌をもたらし、農業を可能にしていた。 その川の流れの中で、私は幾千年もの人間の営みを目撃した。 ファラオの栄光。ピラミッドの建設。神官の祈り。奴隷の汗。 全ての階級の人間が、私なしには生きられなかった。彼らは私を飲み、私で体を洗い、私で農作物を育てた。 そして、一つの特別な時代があった。 第十八王朝。アメンホテプ三世の統治下で、エジプトは最高の繁栄を迎えていた。 王妃ティイが、初めて出産する際、私はその産室にいた。産婦人科医(当時はそのような言葉はなかったが)が、彼女の身体を冷やすために、私を使用した。 ティイは、王妃だった。最高権力者の妻。しかし、その身体の中では、ナミと同じく、母親としての本能が作動していた。「強く……」と、彼女は叫んだ。 痛みの中で、彼女の意識は、娘が無事に生まれることを一点に集中していた。 そして、新しい生命が世に出た。 ティイが初めてその子供を抱きしめたとき、彼女の目に流れた涙もまた、私だった。数千年の時間を隔てても、母親の喜びは変わらなかった。 その娘の名前は、アメンホテプ。後の有名なアメンホテプ四世(アクエンアテン)の母親となる子だった。 私はティイとその子供の関係を長年に渡って見守った。彼女は全ての王妃の中でも特に知的で、政治的影響力も大きかった。だが、同時に彼女は、完璧な母親でもあった。 子供の額の汗を拭う。夜中の発熱に付き添う。教育を受けさせ、儀式を教える。 その全ての過程で、愛を示し続けた。 やがて、その子供が成長し、王となったとき、ティイはその子供に言った。「あなたは、この世界の最高権力者です。しかし、決して忘れてはなりません。すべての人間は、母親から生まれた。そして、どのような王であろうとも、母親の前では、いつまでも子供なのです」
氷河期が完全に終わったのは、今から一万三千年前のことだった。その時点で、人類の祖先たちは既にほぼ全ての大陸に拡散していた。 私が次に目撃したのは、新石器革命だった。 アフリカの草原に、一つの家族が定住していた。狩猟と採集に頼る生活から、初めて、農業へと移行する瞬間。 それは、文明の萌芽だった。 男たちが、棍棒で地を掘り、種を蒔いていた。女たちが、水を運んできて、植えられた種に注いでいた。その時、私もまた、その水の一部として、土中に流れ込んだ。 土の中で、種は発芽した。 根が、私を吸収した。茎が伸び、葉が展開した。穂が実をつけた。そしてやがて、それは穀物となり、人間に収穫された。 穀物が、粉に挽かれ、水に溶かされ、パンとなった。 そのパンを食べた時、一人の少女の頭の中で、何かが起きた。 彼女の名前はナミだった。その部族の指導者の娘で、もう生殖可能な年代に達していた。彼女の脳は急速に成長し、神経細胞の接続が複雑に絡み合っていた。 それは、青年期だった。 ナミの意識が、急激に拡張していく過程を、私は直近で目撃した。彼女は食べ物の味わいを知り、仲間の感情を読み取ることを学び、未来を想像することを覚えた。「君は何か変だ」 彼女の母親が、ナミに言った。「他の子たちとは違う。何か深く考えているようだ」 ナミは答えなかった。彼女は沈黙の中で、彼女の内部の変化を処理していた。思考。それは、彼女の人生において、始まったばかりの旅であった。 私はナミの体を何度も巡った。彼女が成長し、知識を獲得し、やがて母親自身になっていく過程を。 そして、十五歳のとき、彼女は初めての子供を産んだ。 出産は苦しかった。だが、その苦しみが終わった瞬間、ナミの目に涙が流れた。その涙の一部が、私だった。 新生児は、母親を見た。 その瞬間、ナミの脳内に、解放の波が流れた。オキシトシン。愛情ホルモンが分泌され、彼女の神経系を満たした。「ああ……」